100).良いところを見ませんか(全3編)その1
「とても面白いから、絶対に見た方がいいよ」と、友人に誘われて映画を見に行きました。
その友人はストーリーのタネ明かしをしない程度にどんなところが楽しいのかとか、こんな興味深いシーンがあるよとか、事細かく教えてくれたのです。
観にいって大正解でした。友人が言ったとおり、見どころがいっぱいで最後まで楽しみ事ができました。
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そこで、次の日に会った別の友人にも、その映画を勧めてみました。
「ああ、その映画ならもう見たよ。つまらない映画だったね」意外なことに、彼はそんなことを言うのです。
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「だって、ストーリーにこんな矛盾があるし、あそこであの人が出てくるなんて、都合すぎるよ、それに・・・」と、彼は、なぜつまらなかったのかを、細かく教えてくれました。
しかし、そんな矛盾や都合よすげるシーンは、あまり私の記憶に残ってはいなかったのです。
また、彼は、私が伝えた興味深いシーンや感動する場面については「そんなシーンあったっけなあ」と首をひねるのです。
聞いてみると、彼は、前もってある雑誌で、この映画の問題点を指摘している映画評を読んでいたそうです。
ひょっとしたら、それが頭に残っていて、彼には問題のあるシーンばかりが、印象に残ったのではないでしょうか。
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逆に私は、映画の面白いところを聞いていたので、それを期待して観ていました。
だから面白いシーンばかりを観て、楽しめたのでしょうね。
『面白いと思ってみるか、つまらないと思ってみるか』、全く同じ映画を観たはずなのに、友人と私では、観ていたものが全然違っていたようですね。
99)世の中はここより他になかりけり(全2編)その2
『魂をゆさぶる禅の名言』双葉社より
玄峰(げんほう)老師がいつも口にしていた言葉が、この「世の中はここよりほかになかりけり」である。
静岡県の三島市に、山岡鉄舟が通ったという、白隠禅師ゆかりの名刹、竜沢寺(りゅうたくじ)がある。
しかし、戦後荒れ果て無住の寺のようになってしまったのを、歴代首相も訪れる寺として、立て直したのが山本玄峰老師です。
終戦の天皇陛下のお言葉「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という文言も玄峰老師の進言によるといいます。
玄峰老師は、和歌山県の紀ノ川に、捨て子として捨てられていたが、その後、寺の住職に助けられ、禅の道に進みました。
「放たれたところで起き上がる小法師(こぼし)かな」
……
人生には時として、思わぬアクシデントが起こり、試練や苦難がやってきます。
しかし我々は、どんな状況になろうと、起き上がり小法師のように、放り投げられたところで、起き上がるしかないのです。
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また、どんな預言者であっても、明日はどうなるのか、それどころか一瞬先がどうなるのかさえ分かりません。
人生は、「即今(そっこん)」
今しかないと思い定め、くよくよ心配せず、この瞬間を懸命に生きたい。
98)世の中はここより他になかりけり(全2編)その1
医師・高田明和氏の言葉です。
「世の中はここよりほかはなかりけり、よそにはゆかれず、わきにゃおられず。
世の中は、今よりほかはなかりけり、昨日は過ぎつつ、明日は来たらず」
……
禅では「即今(そっこん)、今」などといって、今、この場所以外に行く場所はないということを自覚させようとします。
私たちは、とかく、「もし別の仕事をしていれば、もっとうまくいったのに」とか、
「こんなところにいるはずではなかった。これでは将来がない」などと思いがちです。
このように、今やっていることに全力をあげず、別のところにもっと良い人生があるはずだ、或いはあるはずだったとかんがえるのがわたしたちだとも言えるのです。
……
このような浮ついた考えを正すために、「放られたところで起きる小法師(こぼし)かな」{小さなだるまは、どこに投げられても、そこで起き上がる}という言葉も使われます。
今を軽んじて、よそでは何かもっと良いことがあるのではないかと考えることを戒めているんです。
歌にある「わきにゃおられず」という言葉にも意味があります。
私たちは、つい自分のことを、他人事のように言う傾向があります。
私たちは、今この瞬間の主役であり、脇役ではないのです。
自分が今、この仕事をしているのであって、他人がしているのではありません。
同じことは時間についても言えます。
昨日のことをあれこれ考えても、もう過ぎてしまったことだ。
明日のことを色々心配しても、明日はまだ来ないので何が起こるかわからないというのがこの歌の意味です。