良寛の涙(一話目)

良寛は宝暦八年(1758年)越後(新潟県出雲崎の名家の長男として生まれましたが、人生問題で悩み、18歳の時に、家を弟の由之にゆずって出家しました。この逸話は良寛が60歳のころの逸話です。

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その頃、良寛は、故郷の国上山中腹の五合庵に住んでいました。ある日、みぞれが降る中を一人の女が五合庵を訪ねてきた。それは良寛の弟・由之の妻であった。こんな寒い日にたった1人で山の庵まで訪ねてくるとは、余程のことがあるに違いない。良寛は弟の妻を労(いた)わりつつその訳を聞いた。「長男の馬之助のことで、お頼みがございます。馬之助は年頃になるにつれて遊びや、お酒の味を覚え、少しも仕事に身を入れようとはしません。親の言うことも聞かないし、このままでは行く末が案じられます。なんとか、言い聞かせてはもらえないでしょうか」夫にも息子にも内緒で、こっそりとやってきた彼女を気の毒に思い、良寛はその頼みを聞き入れた。

 

あくる日、良寛はそしらぬ顔で、出雲崎の実家を訪ねた。由之一家は、久し振りの良寛を喜び迎え、寒い折からとて一本つけてもてなした。馬之助も出てきて、お酌をしようとした。いつもなら喜んで受ける良寛であったが、今日はすぐに山へ帰らねばならないからと、杯を手にとらなかった。由之の妻は、きっと馬之助を叱る為に、好きな酒を口にしないのだろうと、申し訳なくさえ思った。

 

しかし良寛は、ひと言も小言を言わないばかりか、久し振りに会う甥の馬之助と話せるのが嬉しくてたまらないように、時間の経つのも忘れて話し込んだ。「おや、もう日が暮れてしまった。山へ戻るつもりでいたのだが、今夜は泊めて貰うことにしよう」そう言って良寛は、弟の家に泊めてもらった。次の日も泊まったが、良寛は馬之助に説教めいたことは少しも言わなかった。由之の妻は、何か心もとない感じがしたが、そのことに触れることは控えた。しかし、馬之助には、良寛が自分を説教するためにやってきたことが、うすうす分かっていたのかもしれない。

 

二晩泊まった良寛は、とうとう小言らしいことはひと言も言わず、山へ帰る挨拶をして土間におりた。そして、上がりかまちに腰かけて、ワラジを履こうとしたが、後ろに座っている馬之助を静かに振り返り、「馬之助、すまないが、ワラジのひもを結んでくれないか」と言った。

 

「はいはい」と返事をして馬之助は土間に降り、良寛の足もとにしゃがんで、ひもを結んでいると、馬之助の首筋にポタリと冷たいものが落ちた。なんだろうと思って、顔を上げると、じっと馬之助を見つめる良寛の目に、一杯の涙があふれていた。

 

良寛は、そのまま雪道を山の庵に帰っていった。このことがあってから、馬之助は、遊びを止め、生まれ変わったように仕事に精を出すようになったという。馬之助の首筋に落ちた一粒の涙。それは良寛の深い愛といつくしみの結晶である。

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良寛は相手の知に訴え、論理でもって説得しようとはしませんでした。戒めの言葉は、ひとことも口にしませんでした。ただ深い愛で相手を包み込んだのです。そして体の中が、慈しみで一杯になった時、熟しきった柿が、枝からポトリと落ちるように、自然と涙が落ちたのです。そこには何の計らいもなかった。美しい心があるだけである。美しい心からにじみ出る涙は、相手の心の底の底まで、真直ぐに落ちていく。そして、相手が「自分をよくしようとする気持ち」を奮い起させる。

人の為に流す涙は、相手の心をも動かす。