陰徳を積む(全2編)その2

その2

しかし、お母さんは動こうとしない。

どうするのか見ていると、彼女はそばにあった椅子を指して看護婦にこういうのです。

「すみません。この椅子を吊ってくれませんか」

そして、それをベットに近寄せると、お母さんはその上に乗るや、もろ肌脱いでお乳を出し、それをガバッと、土井少尉の顔の包帯の裂け目から出ているその口へ、「春!」と言って押し当てたのです。

その瞬間どうでしょう。

それまで、訳のわからないことを言って怒鳴っていた土井中尉は、突然、ワーッと大声で泣き出してしまった。

そして、その残された右腕の人差し指で、しきりに母親の顔を撫で回して、

「お母さん!お母さんだなあ、家に帰って来たんか」とむしゃぶりついて離さない。

母はもう口から出る言葉もありません。

時間です。母は土井中尉の腕をしっかり握って、「また来るよ、また来るよ」といって、帰っていきました。

するとどうでしょう。

母と別れた土井中尉は、それからぴたりと怒鳴ることをやめてしまいました。

その翌朝、そばにいることが分かっていて、彼は静かに言いました。

「僕は勝手なことばかり言って申し訳なかった。これからは歌を作りたい。すまないが、それを書きとどめていただきますか」

その最初の歌が、

「見えざれば、母上の顔なでてみぬ 頬やわらかに 笑いていませぬ

目が見えないので、お母さんの顔、この二本の指でさすってみた。

そしたら、お母さんの顔がやわらいで、笑って見えるようであった。

土井中尉の心の眼、心眼には、母親の顔は豊な、慈母観世音菩薩様のように映ったのに違いありません。

(中略)

この話は、その現場に立ち会っていた、相沢京子さんという看護婦から聞いたものなのですが、その相沢さん自身も、母親の姿を目の当たりにして、患者の心になり切る看護と言うものに目覚めたということです。

………………

道元禅師の言葉にこうあります。

「この法は、人々の分上に豊かにそなわりといえども、未だ修せざるぬは現れず、証せざるには得ることなし」

「法」とは「仏性」のことです。

ですから、全ての生きとし生けるものには、みな物性があると、根本信条を諭されます。

しかし、道元禅師は、それも修行して、磨きをかけないと本当の光は見えてこない。

本当に磨きをかけることによって、真実の父親、母親になれ、その真実の人が、そのものになり切ってこそ、偉大な力を発揮するこということになるのです。

‥‥‥‥

人は感動すると、黙ってはおれないもので、周りの人に誰彼となく言いふらしたくなるものです。

特にインターネットの時代、とんでもない広がりが起こったりします。

また感動させられると、その人に対して、今までとは全く違った意識で接するようになったり、お店であれば熱烈なファンになって、宣伝の役まで買って出てくるこ

とだってあります。

…………

人を感動させるというようなことは、事前に計算してするものではないかもしれませんが、人間関係の改善やビジネスの繁栄のために大いに役立つなら、どうしたら人を感動させることが出来るか?また私達は、どういう時に感動するのか?研究してみる価値は十分あります。明日は、そのことについて、お話ししたいと思います。

それでは、「キュ」