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感謝(全4編)その2

ふと昔聞いた仏教説話を思い出す。

それは、地獄を釈迦が歩いている時のことだった。

地獄に落ちた人々が、釈迦に向って口々に「食べ物をくれ!」と叫ぶ。

釈迦はその言葉を聞き、大皿に食べ物を山のように盛り、人々の前に置いた。

そしてこう言ったという。

「食べても良いが、手掴みではいかない。この箸を使って食べるように」

差し出された箸は、重くて長い箸だった。

人々は釈迦が歩み寄るのを待ちかねて、

箸に手を伸ばし、食べ物を口に入れようとした。

ところが箸は長い(1mもある)ので、食べ物を箸の先で掴んでも、

遠くてそれを口にいれることが出来ない。

ならば箸の下の方を持って・・・と試みても、箸は重いので、

今度は満俗に操ることが出来ない。

結局、目の前に山のようなご馳走があるのに、

それらを口にいれることが出来ないのである。

人々が泣き叫んでいると、ある一人の老人が何事かをおもいついた。

箸で食べ物を掴んだら、

自分ではなく、目の前の人の口にいれるのである。

食べさせてもらった人は、もっと食べたいから、

その人でも箸で食べ物を掴み、

自分の口ではなく、目の前の他人の口に入れる。

自分ばかりが、食べようとしている時には口に入らなかった食べ物が、

人に食べさせることによって自分の口に入る。

人を思いやることが、結局は自分に戻ってくることにつながるのだ。

・・という話だった。

こういう戒めは、キリスト教にもある。

聖書には

「自分がして欲しいと思うことは、人にもその通りにせよ」

という言葉がある。

ごくごく基本的な「思いやり」の教えなのであろう。

けれども、あの仏教説話を聞いた時、確かその話をした人は、

こんなことを付け加えたていたのではなかったか

「これは、思いやりは大切だという教えではありますが、

もう1つ大切なことが隠されています

それは、人が誰かのために何かをするという行為は、

所詮、自分への見返りを期待してのこと

仏の慈悲と同じことだと思いあがってはいけない・・ということです。

友人は、このことを言っていたのだろうか。

自分の行為を仏と同様に扱ってはいけない

それは、思い上がりであると、言いたかったのであろうか。

私は決して、何かを人にあげる時、

具体的な見返りを期待している訳ではないと思っているが、

でも心の底には、そうする自分を見て満足するとか、

人の評価を聞いて満足するというような、

精神的見返りを持っているところが皆無とは言い難い。

私は窓の外に目を遣りながら、じっと考えた。

聖書の中に、こんな言葉もある。

「人がその友のために命を捨てること。それより大きな愛はない」

見返りを求めず、自分の身を投げうつことが愛というならば、

私がささやかにしている行為など、愛の足元にも及ばない。

私は胸が苦しくなった。

‥‥‥‥‥‥

明日(その3)は、ここからです。

「してもらう」ことを望むより、

「してあげる」ことの喜びを感じられる方がいい。

偽善でも見返りを求めるような気持ちがあっても、

やさしさを表さぬよりは、表した方がいい。

けれども、そこは第一ステップにすぎない。

その上に、階段はずっと続いているのである。

私はその階段があることに気づいていなかった・・

‥‥‥‥‥

九州地震の被害が、これ以上拡大しないことを祈って、

みな様、素敵な一日をお過ごしくださいませ。

それでは、 「キュ」