武士の孝養(全3話)第二話
「孝」を貫く
忠義を尽くす者は、主君が衰退してもその忠義は変わらない。
味方百騎が十騎に減っても、十騎が一騎になっても、主君の側を離れず最後まで守る。
親への孝を貫けばそれは他人の孝、地域への孝にもつながる。
家に居て不孝する子供は、社会に出ても主君の威勢にばかり気を取られて、少しでも陰りが見えれば、さっさと主君を変えてしまう。
戦場に於いてもすぐ離脱してしまう。
内通、降伏など平気で働く。
今日では、産地偽装や汚染米の流通等、「見つかりさえしなければ何でもしてよい」と、無責任な行動をする。
武士たるもの、親に孝養を尽すことが第一条件とする。
どんなに才気盛んで弁舌さわやかであろうと、親不幸者は、ものの役に立たない。
義理が分からない者は、武士とはいえない。
全く赤の他人同士であっても、お互いの気心が通じ合って親密になり、相手のことを大切に思って尽くそうとする。
まして、親なれば、子供として、どれ程孝養を尽そうと、それで十分と言うことはないはずである。
・・・
明日は、武士の孝養(全3話)の最終回は「孝」の代表的武将のお話です。
立花宗茂の「孝」
立花宗茂は、戦国時代の終わりに生きた猛将です。
立花家は、大友宗麟の一族で当時北九州を治めていました。
ところが、南の島津家が大軍を率いて北九州を侵略。
他の大名は、島津家の勢いを恐れ次々と降伏したが、立花家は最期まで抗戦。
その後、北から秀吉軍攻めてきて、島津家は南方に後退した。
秀吉は立花宗茂の武勇を大いに讃えます。
当時、宗茂はまだ19歳でした。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いで宗茂は、豊臣家の恩義を忘れず西軍に加担しました。
同じように、秀吉に育てられた加藤清正は、石田三成が嫌いで東軍に加担しました。
他にも秀吉に可愛がられながら、三成がどうしても信用できずに、家康側についた武将が多くありました。
しかし、宗茂は「人」ではなく「議」を選びました。関ヶ原の戦いは、東軍の大勝利に終わり、宗茂は部下を連れて船で九州に・・・
※火曜日から6連載で、『素直』をテーマにお話を紹介いたします。