武士の孝養(全3話)第三話

立花宗茂の「孝」

 

立花宗茂は、戦国時代の終わりに生きた猛将である。

立花家は、大友宗麟の一族で当時北九州を治めていた。

ところが、南の島津家が大軍を率いて北九州を侵略。

他の大名は、島津家の勢いを恐れ次々と降伏したが、立花家は最期まで抗戦。

その後、北から秀吉軍攻めてきて、島津家は南方に後退した。

秀吉は立花宗茂の武勇を大いに讃える。

当時、宗茂はまだ19歳であった。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは宗茂は、豊臣家の恩義を忘れず西軍に加担した。

同じように、秀吉に育てられた加藤清正は、石田三成が嫌いで東軍に加担した。

他にも秀吉に可愛がられながら、三成がどうしても信用できずに、家康側についた武将は多い。

しかし、宗茂は「人」ではなく「議」を選んだ。

関ヶ原の戦いは、東軍の大勝利に終わり、宗茂は部下を連れて船で九州に渡った。

その時部下が、「追っ手が来ないように後方の橋(瀬田の唐橋)を焼いてしまおう」と宗茂に進言するが、宗茂は「バカなことを言うな、橋は多くの人が利用する」と言って部下を叱りつけた。

家康は立花家を肥前(佐賀)の鍋島家に討たせようとするが、加藤清正が中に入り、宗茂に降伏を勧める。

清正の説得に宗茂も納得し、清正の城に居候することになった。

領地は徳川家に全部没収された。

その時、宗茂は場内の財産を全部、部下に分配し、無一文で清正の世話になることを選ぶ。

清正は、宗茂に負い目があった。

宗茂以上に秀吉に可愛がられながら家康側についたことを内心恥じていた。

なんとか宗茂にもう一度再起して欲しいと思い、「島津家攻略の先頭に立って活躍し、家康に許しを請うようにしては」と宗茂にアドヴァイスする。

ところが宗茂h、確かに島津家とは以前戦ったことはあるが、関ヶ原では同じ西軍だった。

と言って断る。己の出世欲とか、好みで判断しようとしない宗茂を、ますます清正は尊敬した。

その後、宗茂は清正に迷惑がかかってはいけないと思い、加藤家を辞することにした。

やがて二代将軍秀忠の時代になり、宗茂の律儀を愛した秀忠は、浪人の宗茂を故郷に戻し、十一万石の録を与える。

西軍につき、一旦没収された元の領地に、ほぼ同じ録で戻れたのは、立花宗茂のみである。(終わり)

・・・

「素直な心」を持つことは、人間の成長にとっても、人間関係の改善にとっても、大変重要な要素だと言われています。

お互いが素直な心になれば、していいことと、してはいけないことの区別も明らかとなり、また正邪(せいじゃ)の判別も誤ることなく、何をなすべきか、分かってくる。

そして、あらゆる物事に関し、適時適切な判断のもとに、力強い歩みが出来るように、なってくるのではないかと思います。

素直な心というものは、誰に対しても何事に対しても、謙虚に耳を傾ける心であります・・・

タイトルは、素直な心「耳を傾ける」です。

それでは、みなさま 素敵な一日をお過ごし下さいませ。「キュ」