115.人生は一度きりの晴れ舞台
社会生活は一つの舞台である。
特に、それで報酬を得また人間性も問われる。仕事の場などは、舞台も舞台、人生における歌舞伎座やアポロシアターやオペラ座のようなものである。
「晴れ舞台」なのだ。
その一挙手、一頭投足が衆人環境の中で行われ、一つひとつの行動が、その人の人間としての評価に結び付いていく。
仕事の場が、このような大事な舞台だとすれば、その舞台でドラマを演じる役者が、まったくの素顔で、しかも役者の「地」の性格や気分で舞台に上がることは、ふつう考えられない。
ありえないことである。
ところが愚かにも実人生では、仕事という大舞台の場に、ノウハウと「地」のままで登場してくる人々もいる。
不用意というか不心得というか、素顔でヌーッと人前に出てくる人間がいる。この警戒心のなさぶり、鈍感ぶりには驚かせられる。
どのようにしたら身につくものだろうか?と思わせるほどである。正直に生きるのは確かにすばらしいことだ。
しかし、これは未熟な人格を、そのままむき出しで、周囲に押し付けることではない。
ナマのままの自分を出して、それが美しく、他人に不快を与えないと言うような人は、よほど希(まれ)な人である。
それを、自分のナマのままが素晴らしいなどと、錯覚していたりすると、周囲の人間は、大変な迷惑をこうむることになる。
いわば「歩くトラブルメーカー」となる。
よく言えば、個性的、悪く言うと自分勝手、むき出しの自分をさらけ出す。仕事の出来る人、人に対するサービス精神のある人は例外なく、それぞれが自分の個性を生かした名優であると言えよう。
自分の言動をどこかで、もう一人の自分が客観視し「演技力」を磨いている。
『なぜ、この人の周りに人があつまるのか』PHP文庫
・・・
人は時として、何もかも放り投げたくなる心境に陥ったり、怒りがフツフツと湧いてきたり、キレそうになってしまったりする。
特に、勢いがある若い時は、このむき出しの未熟な自分を出してしまうkことがある。棄て鉢になり、どうでもいいやと投げてしまう。
「オレはオレだ」とか、「関係ねえ」と。
しかし、これを仕事の場でやってしまったら、おしまいだ。そんな時は、自分のことしか考えられない。
いわゆる、自暴自棄の、自己中心的な考え方。
だから、誰に見られようと関係ない。そういう姿をみて、「格好いい」とカン違いする若者も出てくる。
しかし、それは、舞台ではウケない。
人生という舞台は、素顔のママで出演出来るほど甘くはない。
舞台からは暗くて見えにくいが、多くの観客が見守っているのだ。
お客様は、上演中はひと言も文句は言えないが、舞台が終わり、外に出てから鋭い批判をする。
だからこそ、自分をもっと客観的にながめ、人前で恥ずかしい演技をしていないか、もう一度確かめてみる必要がある。
毎日の舞台に演技力も磨かず、不用意に出てくるのは、あまりにも舞台をナメている。舞台に上がる前には準備が必要。人生は一度きりの晴れ舞台なのだから。
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115.人生は一度きりの晴れ舞台(全2編)その1
社会生活は一つの舞台である。特に、それで報酬を得また人間性も問われる。
仕事の場などは、舞台も舞台、人生における歌舞伎座やアポロシアターやオペラ座のようなものである。
「晴れ舞台」なのだ。
その一挙手、一頭投足が衆人環境の中で行われ、一つひとつの行動が、その人の人間としての評価に結び付いていく。
仕事の場が、このような大事な舞台だとすれば、その舞台でドラマを演じる役者が、まったくの素顔で、しかも役者の「地」の性格や気分で舞台に上がることは、ふつう考えられない。ありえないことである。
ところが愚かにも実人生では、仕事という大舞台の場に、ノウハウと「地」のままで登場してくる人々もいる。
不用意というか不心得というか、素顔でヌーッと人前に出てくる人間がいる。
この警戒心のなさぶり、鈍感ぶりには驚かせられる。
どのようにしたら身につくものだろうか?と思わせるほどである。
正直に生きるのは確かにすばらしいことだ。
しかし、これは未熟な人格を、そのままむき出しで、周囲に押し付けることではない。
ナマのままの自分を出して、それが美しく、他人に不快を与えないと言うような人は、よほど希(まれ)な人である。
それを、自分のナマのままが素晴らしいなどと、錯覚していたりすると、周囲の人間は、大変な迷惑をこうむることになる。
いわば「歩くトラブルメーカー」となる。
よく言えば、個性的、悪く言うと自分勝手、むき出しの自分をさらけ出す。
仕事の出来る人、人に対するサービス精神のある人は例外なく、それぞれが自分の個性を生かした名優であると言えよう。
自分の言動をどこかで、もう一人の自分が客観視し「演技力」を磨いている。
『なぜ、この人の周りに人があつまるのか』PHP文庫
114.ある大工さんの引退(全3編)その3
話は変わりますが、世界の経営者やビジネスマンに大変な影響を与えた、P・F・ドラッカーは、「プロフェッショナルの条件」の中で、「自分の人生を変えた7つの体験」を書いている。
その中に18歳の頃、ハンブルグの有名な私立図書館に勤務していた頃の話がある。
ある時80歳になった音楽家ベルディの最後の作品で、大変難しいオペラ「ファルスタッフ」を見に行った体験である。
場所は、ヨーロッパで最高水準にあったドイツ・ハンブルグの「オペラ座」である。
・・・
『信じがたい力強さで、人生の喜びを歌い上げるあのオペラは、80歳の人の手によるものだった。
18歳の私には、80歳という年齢は想像も出来なかった。
当時平均年齢が50歳そこそこだったため、80歳は珍しかった。
当時、ベルディは、既にワーグナーと肩を並べる身でありながら、しかも80歳という年齢で、「あなたは、何故並はずれて難しいオペラを、もう一曲書かれるそうだが、なぜそんな大変な仕事に取り組まれたのですか?」との質問に、ベルディは、「いつも失敗してきた。
だから、もう一度挑戦する必要があった」と答えた。
私はこの言葉をわすれたことがない。
それは心に消すことのできない刻印となった。
だから私は、その時そこで、一生の仕事が何になろうとも、ベルディのその言葉を「道しるべ」にしようと決心した。
その時、いつまでも諦めずに、「目標とビジョン」を持って、自分の道を歩き続けよう。
失敗し続けるに違いなくとも、「完全を求めて」いこうと決心した』。
『最善を尽くし続ければ、その時の最善の結果が生まれる。天は、自ら助くるものを助く』。
これらの言葉は、誰もが知っており、誰もが何度もそう思っている。
しかし、最後まで、それを追い続けることの出来るひとは、限られている。
能力の違いではなく、心の持ちようの問題なのだが・・・。