読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

素直な心・・耳を傾ける全2編(その2)

戦国時代の武将と言えば、とかく戦場で全軍に下知(げじ・命令)をとばし、部下を叱咤するといった激しい姿が想像されますし、また城にあっても殺生与奪(せっしょうよだつ)だから、もし万一家来が主君に対して、諫言(かんげん・目上の人の過失等を指摘して忠告すること)するようなことになれば、その家来は切腹で諫言をしなければならないわけです。

切腹を覚悟でいうことは、命を捨ててということです。

それだけに、よほどの名君ならともかく、普通の場合は、諫言(かんげん)の必要を感じても、出来にくかったであろうと思われます。

しかし、そういうことでは、主君の耳には、都合の良いことしか入ってこないでしょう。

これでは国を誤る元にもなりかねません。

長政は、そのようなことを、よくわきまえて、それで都合の悪いこと、耳に痛いことでも、聞けるようにという会合をもったわけです。

 勿論長政も人間です。

だから自分の悪い点を、家来が面と向かって指摘したなら腹も立つでしょう。

しかしそこで腹を立てれば、もうおしまいです。

だからそのことをあらかじめ考えて、会合の前に“腹を立ててはいけない”というルールをお互いに誓いあって、万全を期していたわけです。

まことに、ゆきとどいた姿と言えるでしょう。

長政が、そういう姿の会合を続けていたということは、一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがあるのだ。

それは改めなければならないから、教えてもらおうという謙虚な心を、持っていたと思われます。

 勿論、そこには、国を誤らない為に、という配慮もあったでしょうが、その前に、いわば自分自身の不安定さを自覚するという、人間としての謙虚さといった深い心を持っていたからではないかと思うのです。

そういう不完全さの自覚があったからこそ、例え家来かの指摘であっても、それをいわば天の声として受け止めるという、謙虚さも生まれてきたのではないでしょうか。

 謙虚な心で衆知に耳を傾けるということは、いつの時代どんな場合でも非常に大切な事ですが、素直な心が働けば、そういう姿が生まれてきます。

即ち、素直な心になれば謙虚さが生まれ、その謙虚な態度の中から衆知というものも、自から集まって来るのではないかと思います。

黒田家52万石安泰の基盤も、そのようにして衆知が集まったところから、築かれていったのです。

素直な心・道理を知る

「素直な心」というものは、広い視野から物事を見、その道理を知ることのできる心なのでしょう。(終わり)