神々は見ている(全4編:2話)「誰かに拝まれる人生」その2
それから、三年ほど経って、その奥さんが再び訪ねて来られました。
奥さんは、次のように話されました。
「主人の介護をしているある日のこと、その日はいつになく元気で、
主人が『一度起こしてくれないか』と言うのです。
ちょっと上体を持ち上げて、柱を背にしてあげたら『お前、ちょっと前にまわってくれんか』と言うのです。
「妙なことを言うな」と思いながら前へ回りましたら、
「先生!」なんと主人が手を合わせて
『俺はなあー、いっぺん座り直して、お前を拝んでから死にたかった。よく俺達の面倒をみてくれたなあ・・。ありがとう!この恩だけは絶対忘れんよ』
と、私を拝んでくれました。
それからしばらくして主人が亡くなり、その後をおうようにして老人二人もバタバタと逝ってしまいましたが、二人とも、私を拝んでくれ、安らかな死でした。
逃げなくて良かったと、しみじみ思わせていただきました」
…………
ある知り合いの話だが、70歳過ぎのご主人が倒れて半身不随となった。
すると、その奥さんは急に、夫の面倒を見るのは御免だと言いだし、さっさと離婚し、夫を施設に預けたという。
「これから余生を楽しもうと思っていたのに、夫の世話などしていたら、一生楽しまずに終わってしまう」と、いうことだろう。
昨今は、ここまで極端でなくても、この類の話は枚挙にいとまがない。
何も、「全て家で最後まで面倒みなければいけない」と、言っているわけではない。
心の奥底に「人を思いやる」「人のため」という、気持ちがあるかどうかである。
現代は、「自分が一番大切である」と、思う人が増えている。
ミーイズムという「自己中心的で他の人のことはどうでもいい」という考え方である。いつの間にか日本中に、はびこってしまったのである。
その為、そういう人を部下に持つ幹部は、頭が痛いという。
ボランティアで、世のため人のため、と駆け回ることは尊いことだ。
しかし、もし身近に世話をしないといけない人がいるなら、それをすることも、立派な善行である。
周りの人も応援の声を掛けてあげたい。
身近な人のお世話は、目立たず、ボランティアのように多くの人から感謝もされない。一寸手を抜くと、近所から何を言われるか分らない。
しかし、善幸には、上下もなけれwば、大小もない。
次々やってくる困難な出来事に対し逃げずに、きちっと受け止め淡々とこなしていく。
その努力を、きちっとどこかで見ている人がいる。
その様子を、ドラッカーは「神々が見ている」と言った。
人様から、拝まれるような人生を送ることが出来たら幸せである。
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明日から2回に分け、皆さんご存じの、三浦和良さんのお話を紹介いたします。
「学ばない者は人のせいにする。学びつつある者は自分のせいにする。学ぶということを知っている者は、誰のせいにもしない」三浦知良
それではみなさん、 「キュ」