神々は見ている(全4編:2話)「誰かに拝まれる人生」その1
和歌山県の雑賀正晃さんというお坊さんの
「光を生きる」というご本の中にあるお話です。
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雑賀さんの所へ、一人の奥さんが訪ねて来られました。
お聞きすると、この奥さんは結婚されて二年目に、お爺さんが中風で倒れてしまい、全身不随になってしまわれた。
それから二年経たないうちに、今度はお婆ちゃん中風で倒れて、体の自由がきかなくなってしまった。
ところが、それから二年経たないうちに、屋根ふき屋さんであったご主人が、よその家の屋根をふいている時に、足を滑らせて転落し、下半身不随になってしまった。
つまり、結婚して五年経たないうちに、全身不随二人、下半身不随一人をかかえて、一人で田畑を耕しながら、一生懸命にその三人の世話をなさって来られたのである。
……………
雑賀さんは、こう言ったそうです。
「仏の教えは、『どちらでもなさい』ということです。
でもそう答えたのでは、さぞご不満でしょう。
いかにも思いやりのない無責任な返事のように思われるでしょうが、実はどちらの道でもいけるからこそ、そう言ったまでのことです。
でもたった一つだけ、はっきりしておかなければならないことがあります。
それは『蒔いた種は生える』ということです。
この世は、因果の道理で動いています。
逃げたければ、逃げることも出来ます。
ただし、逃げても事はすみません。
逃げるということは、因果の果を果たさずにいくことですから、種が残っています。
種が残っている以上、果のでることは当然で、逃げ先で果を摘むだけです。
どの道でもあなたのお好きなように歩んで下さい」。
「先生、お恥ずかしいことをお聞きしました。
今の環境をしっかり受けてどこまでも背負っていきます!」。
「よく言ってくださった。仏様も、どんなに喜んで下さるでしょう。
あなたのその苦しみを、代わってやれるものなら代わってやりたい。
でも、業報の世界は、一人ひとりの世界なのです。
代わってやれないから、泣かずにはおれない。それが仏様の慈悲なのです」。
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長くなりますので、明日このお話しの続きとまとめをします。
その2 はここから、始めます。
それから、三年ほど経って、その奥さんが再び訪ねて来られました。
奥さんは、次のように話されました。
「主人の介護をしているある日のこと、その日はいつになく元気で、主人が『一度起こしてくれないか』と言うのです。
ちょっと上体を持ち上げて、柱を背にしてあげたら『お前、ちょっと前にまわってくれんか』と言うのです。
「妙なことを言うな」と思いながら前へ回りましたら、「先生!」なんと主人が手を合わせて『俺はなあー、いっぺん座り直して、お前を拝んでから死にたかった。よく俺達の面倒をみてくれたなあ・・。
ありがとう!この恩だけは絶対忘れんよ』と、私を拝んでくれました。‥‥‥
それでは、みなさん、 「キュ」