ある達人(その人は…マギー司郎さん)(全3編)その1

「達人とは、“永遠の初心者”のことである」

ジョージ・レナード著『達人のサイエンス』より

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昭和39年の東京五輪を翌年に控え、東海道に新幹線や高速道路が急ピッチで造られつつあった頃あの頃、17歳の少年が茨城から上京した。

少年の名は野澤司郎。

「手品師になりたい」と都内のマジックスクールで学び、20歳にして晴れてプロのマジシャンになった。

今でこそ華やかな人気職種だが、当時“奇術師”と言われたこの職種を目指す若者は全国でも珍しかった。

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野澤少年は、子供の頃、知恵の輪が大好きだった。

中耳炎を治すために毎日病院へ通わなくてはならないのに、こっそり1日置きにしてお金を貯め、ついに知恵の輪を買った。

だが、それが母親に見つかった。

クラスの中でも飛びぬけて貧しい家庭だったし、厳しい母親なので、知恵の輪を取り上げられ、おもちゃ屋に返されるものと少年は思った。

だが、この時、母は何も言わなかった。

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「もしあの時、母に知恵の輪を取上げられていたら、今の僕は無かったでしょうね。僕が真剣に好きなものを、母は分かってくれたのだと思います」

上京5年目、22歳の時、手品師マギー信沢を師事した。

自らも芸名をマギー司郎に変えた。

13年後輩の兄弟弟子にマギー留美がいる。

きちんとした仕事が無く、ストリップ小屋で1日4回も幕つなぎのマジックをやった。

結局この幕つなぎの仕事は15年も続いた。

明日(その2)はここからです。

プロと名乗るマジシャンでも、経済的に食べていける人などごく少数に過ぎない。

司郎がストリップ小屋に立っていた頃から、40年を経た今でも、サラリーマンと同じ生活レベル保てているプロマジシャンは1割に満たないという。