104)泥かぶら(全3編)その1

演劇「泥かぶら」をご覧になられた方もおられるでしょう。

昭和27年の初演以来文部大臣奨励賞を受賞し、国内外で15000回以上も上演されている眞山美保作・演出の名作。

子供から大人まで楽しめて心洗われる美しい劇です。ストーリーをご紹介します。

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昔、ある村に顔の醜い少女がいました。

孤児で、家もなく、森の落葉の中にもぐり、橋の下に寝る。色は真っ黒、髪はボウボウ。

着物はボロボロ、身体は泥だらけ。

少女は、その醜さゆえに、「泥かぶら」と呼ばれていました。

子供からは石を投げられ、唾を吐きかけられ、「泥かぶら」の心は、ますます荒れ、その顔は、益々醜くなっていくばかりです。

…ある日のことです。

「泥かぶら」が、いつものように村の子供達と争っていると、旅のお爺さんが通りかかりました。

悲しみに打ちひしがれた「泥かぶら」を慰めていると、「泥かぶら」は、「きれいになりたいなあ~」とつぶやき、お爺さんにその方法を問います。

お爺さんが教えてくれた方法は、3つありました。

「まずは、自分の顔を恥じないこと。2つ目は、どんな時にもにっこりと笑うこと。そして3つ目は、人の身になって思うこと」

「泥かぶら」は、激しく心を動かされます。

というのも、それらは、今までの自分と全く正反対の生き方だったからです。

「この3つを守れば村一番の美人になれる」お爺さんの言葉を信じた「泥かぶら」は、その通りの生き方をし始めます。

しかし、急に態度の変わった「泥かぶら」を見て、村人は不審に思うばかりか、嘲笑し、中傷するのです。

しかも、川面に映る自分の顔を見ても、少しも美しくなっていません。

「泥かぶら」が、絶望感に襲われていると事件が起こります。村一番の美人で、一番お金持ちの庄屋の子「こずえ」が、どうしたことか、「こわいよ!」と叫んで逃げ回っていたのです。

「こずえ」は、日頃から、「泥かぶら」を嫌がって虐めていたものの一人です。

何か訳があるに違いありません。・・・

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続きは明日、明後日投稿いたします。

103)「扉の国」と「障子の国」(全2編)その2

先の東日本大震災の時のような非常時になると、そのよき資質が現れる。

海外メディアが驚嘆した「日本人らしさ」であります。

しかし、アメリカを筆頭に他国と行くと、この以心伝心が通じないことが多いと聞きます。

言語も習慣も違う多民族国家の中では、自分を主張し、意見をハッキリ言わないと何も通じないからです。

相手が理解してくれるのを待っているだけでは、扉はピクリとも動きません。

子供のころから、人前でプレゼンする訓練を受けてきたアメリカ。

時には、熱意や姿勢を派手に出すことも必要です。

問題は、どうすれば「惻隠の情」が育つか、と言うことです。

そこには「わがまま」を抑えることから始めるのが一番でしょう。

そして、その第一歩は行儀作法を良くすることです。

具体的には、

1.「ハイ」という返事が元気よく言える。

2.「おはようございます」などの挨拶がきちんと言える。

3.脱いだ靴のかかとを揃える。

4.姿勢を正す。

5.朝寝坊をしない。

この5つが大事だと思います。

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一見「惻隠の情」とは無関係のように思われるかも知れませんが、洋の東西、時の古今を問わず、

行儀作法を教えないで、人間らしい心を説いた人はありません。

何故なら行儀作法は、人間のみ出来ることであり、その意義が理解出来るのも人間だけだからです。

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小学校の児童に「人間としての土台3原則」という話を聞いたことがあります。

1.       あいさつは自分から先に

2.       返事は「はい」とはっきりと

3.       脱いだ履物は、踵を揃え、立ったら椅子は机の下に

この3つです。

この3原則を説かれた先生は、この3か条こそが人間の生き方の基本であり、これさえ身に着ければ、人としての土台ができるとおっしゃるのです。

102).「扉の国」と「障子の国」(全2編)その1

※『アメリカなう』小学館より

アメリカで、『申込期限終了』とか「満員御礼」とか言われても、あきらめちゃいけません。

強い熱意を持って体当たりしたら、大抵の扉は開かれます。

というか、むしろ「その熱意がうれしいよ」と大歓迎されちゃったりするから面白い。

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「鉄人」の名で知られる元大リーガー、カル・リプケン選手らが主催する野球少年向けの合宿に、息子を放り込んだことがあります。

申し込もうとしたら、既に満員でした。

日本なら当然あきらめるところだけど、「ここはアメリカ」と、少々押しの強いメールを出してみました。

曰く、「日本から来た息子にとって、野球はアメリカの入り口でした。野球を通して友人を作り、英語を学びました。だからこそ、全米から野球少年が集うこの合宿を、ぜひ経験させてやりたいのです」。

そしたらメールを送って僅か1分後、「大歓迎ですっ!」と返事が来た。

あの~、満員御礼、だったんじゃないんですか・・・?

思うに、アメリカは「扉の国」なのです。

扉は、力任せに体当たりすれば開きます。

もちろんアメリカでも、根回しや、気配りは意外と大事なのだけれど、一番大事なのは本人の熱意や姿勢を見せることです。

一方、日本は「障子(しょうじ)の国」です。

体当たりしたって開くわけがありません。

力任せにぶつかれば、障子紙を破って、ひんしゅくを買うだけです。

障子はやはり、正座の姿でにじり寄り、周囲に気を配りつつ、礼を尽くして、ツツツと静かに明けなきゃいけません。

時には、障子戸にあえて手をかけず、じっと正座して待つとか、他人様にお願いして開けていただく、な~んて方法が、意外と効果を発揮したりもします。

ならば、これを上手につかいわければいいんだろうけど、どうにも難しい。

アメリカの「扉」の前で、何度正座して待ったことか!

3年かけてようやく、扉への体当たりのコツをつかんだと思ったら、今度は日本に帰った時、「障子」に頭から突っ込んじゃいそうで怖い。

でも、体当たりして、誤解されて、思い悩んで、バカな失敗を山ほど積み重ねて・・・。

そうやって知っていくのがやっぱり、一番面白いんだな。アメリカって国も、そして日本も。

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日本人の深層心理の中にある素晴らしい資質は、弱者や敗者に対する思いやりや共感といった惻隠(そくいん)の情※注、すなわち察する文化であるのです。

※惻隠の情

「惻」は、同情し心を痛める意。

「隠」も、深く心を痛める意。

従って、人が困っているのを見て、自分のことのように心を痛めるような、自他一如(いちにょ)【平等・無差別】の心もちを「惻隠の情」と言います。

もっと平たく言えば「思いやりの心」と言うことになるのかも知れませんが、それだけは十分に表せないもっと深い情愛を満たす言葉です。