ファラデーの涙(二話目)&エピローグ

ある日、教壇に立つと、小さな一本の試験管を揚げて、次のように話し出した。

諸君、この中に入っているものは、一体何だと思う?

 

けげんな顔つきで見つめる学生たちに向かって、ファラデーは、静かに説明を始めた。実は、底の方にある少量の液体、これは涙だ。昨日、ある学生の母親が、私のところに相談に見えて、息子のことで苦悩を打ちあけ、机にうち伏して泣いておられた。その時、机の上に流された涙がこれだ。

いいか諸君!君たちはみな、医者の卵だ。だから、この涙を科学的に分析するぐらいは、朝めし前の仕事だ。分析の結果、若干の水分と、何%かの塩分、カルシュウムという風に、答えは直ぐに出せるはずだ。だが、大事なことは、そんな分析ではない。 

この涙の中には、母親の深い苦悩と、限りない愛情がこもっているのだ。その苦悩や愛情は、どうしたら分析できるのか。いかに科学や医学の力をもってしても、それだけでは分析不可能だ。水と水分と、何々というような受け取り方、見方、考え方しか出来ない者は、人間の持つ心のアヤとか。愛も、苦悩も、感情も、理解できぬ者だ。科学や医学の力でも、分析出来ぬ「喜怒哀楽」という肝心な心を分析出来るものは宗教をおいて他にない。ここが最も重要な所である。

学生たちは、しだいに感動に包まれていく。諸君は医者としての立場上、何ごとも医学的、科学的、合理的に割り切ろうとする。検査の結果が示すデータだけが真実であり、全てだと、つい思い込んでしまいがちだ。だが、それだけで十分な治療ができるだろうか。科学力・医学力をマスターすることは必要であり、尊いことだ。だが、それだけが、人生や物事の全てではないことを、今こそ肝に銘じて欲しい」

そして最後に、次のように話しました。

 

「大事なことは、澄みきった、温かい思いやりの心、そうした心の眼で正しく見ることを忘れたら、機械と同じで、もはや人間ではない。医者である前に、まず血も涙もある、温かい心の人間であって欲しい。そうでなければ、冷たい機械に成り下がってしまう

………

澄み切った、温かい、思いやりの心、そうした心の眼で、正しく見ること

この言葉には、一人ひとりの喜びや悲しみを感じ取り、一人ひとりの人間の重みを大切にしていこうという願いが込められています。120年以上も前のファラデーのこの話は、何でも科学的、合理的に割り切ろうとする傾向のある今日、大きな戒めになるように思います。

 

エピローグ

 

騎手が今日走る競走馬に向かって、「今日は頼むよ!」と声をかけたり、盆栽に凝っている老人が、盆栽に向かって、「おはよう、ご機嫌如何?」等と、毎日声をかけている。盆栽もまた、それに応えて成長も早いという。それと同じように、無機質に見える、あなたの目の前にある例えば機械に対しても、毎朝「おはよう、今日の調子はどうだい!等、声をかけて見てはどうでしょうか。機械に対する慈しみの心を持とう!

 

心が通じれば金属疲労も見つかるだろうし、不具合も早く見つかるかもしれませんよ。